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1.八洲光学創業の話し
  細野、石川の二人は、大正14年はじめ、山下長(創業者・当時社長)が新たな決意をもって、わが社再建に乗り出したとき、社員中から選ばれた役員に就任、三宅は昭和3年同じく社員から監査役に就任して、苦難時代を現場の第一線で活躍、金属顕微鏡やアポクロマート付高級鏡基の完成に果たした役割りは大きかった。
  しかし、この増資資金に関連して島津製作所関係から松浦弥平、山下の友人生駒純が取締役に、木場悦熊が監査役に就任したことは、幹部社員の間に大きなショックを与えた。とくに光学部主任だった三宅国忠が大阪営業所へ転任を命ぜられ、それを不満として退職を決意したことから、大きな不安と動揺が生まれた。その不安と動揺が発展して、昭和9年7月にいたり機械部主任細野清一、化学部主任石川淳吉、三宅国忠に比留間輝治、門田勝義と、先に取締役に就任していた西野邦三郎ら幹部社員が連袂退社して、顕微鏡製作の新会社八洲光学を設立した。わが社の現場の指導的立場にあった人達が中心になり、三十数名行をともにして顕微鏡製作の競争会社を設立したのだから、その衝撃は大きかった。

   引用文献:「50年の歩み」オリンパス光学工業株式会社(昭和44年発刊)




2.「八洲光学」
  同社は「高千穂光学」と同様、顕微鏡専門のメーカーであったが、双眼鏡(大型を含む)及び観測鏡の製造に対し同社の協力を得ることとし、特に西野社長の傘下にある諸工場も併せ利用することになり、その政治力により予期以上の生産協力を得ることが出来た。最終生産希望量は双眼鏡に於て1万台以上に達した。

   引用文献:「日本の光学工業史」第5章 陸軍の民間工場倍養計画(昭和30年発刊)




3.陸軍の八光会について
   陸軍光学部では、将来光学兵器の製造が行詰らん事を恐れ、その場合に備える為、いち早く準備にかかった。「日本光学」「東京光学」の2大会社を除き、残りの光学会社の内から優秀会社八社を選び乙を糾合し、先ず是等に将校用双眼鏡の製造を命じた。厳格な規格を定め一意奉公、会社相互は有無相通じ、困厄究苦を共にするを誓わしめた。乙が後の八光会の起りであった。
   

   引用文献: 「日本の光学工業史」光学兵器の思い出(手嶋安太郎 著)(昭和30年発刊)
           「板橋と光学」板橋区立郷土資料館 (平成20年)




4.八洲光学工業 情報 (昭和20年8月15日調)
   工場名:本社工場
   所在地:東京都杉並区方南町
   労務者数:200人
   設備:工作機80台、その他90台
   生産品及び月産:双眼鏡、顕微鏡、編流測定器 / 12万円
   戦災:昭和20年5月25日 全焼
   疎開先及び疎開率(%):福島県伊達郡梁川町の他14か所(劇場その他)/ 100%

   引用文献:「日本の光学工業史」主要光学兵器工場一覧表(昭和30年発刊)




5.疎開
  福島県伊達郡梁川町の広瀬座、万休院他
   旧広瀬座(現在、国指定重要文化財)
   http://minka-en.com/shisetu/06hiroseza.html




6.八洲光学工業株式会社 社歌
歌手 岡本敦郎/コロムビア合唱団
発行者 株式会社日本畜音器商会
作詞家 阿木翁介 / 作曲家 古関裕而 / 演奏者 コロムビア・オーケストラ
保管・閲覧場所:昭和館5階 映像・音響室 (資料番号008814)





7.山田幸五郎と青木小三郎
八洲光学工業株式会社という顕微鏡会社では、海軍造兵少将の山田幸五郎先生が顧問、海軍技術大佐で海軍光学実験部長、戦艦大和の十五メートル測距儀の設計、製造監督をされた青木小三郎氏が研究部長だった。

   引用文献「六十年の回想」 藤陵嚴達




8.倒産
昭和26年9月、当社輸出品の最大の顧客のニューヨークオップレムカンパニーが当社の値上げ要求とアメリカ市場の変動により買付を中止した為、輸出需用の総てを国内需用へと切換るべき必要を生じ需用のバランスが破れた。
従って当時従業員340名の人件費並びに生産材購入の資金的欠乏と成った為に当時需要再生期の再来を待つべき手段として一部従業員を解雇と生産製品に対する滞貨金融1億円の融資を住友銀行に対して要求、了解が付いたのであったが、当時労働運動が盛んとなり、他動的な力によって与えられた不理解に基づく権利の要求は執拗を極め加うるに関東金属の多くの精鋭分子に依る外郭団体の支援によって、労働争議のあけくれとなった。
昭和27年5月4日、八洲光学は全従業員を解雇した。

   引用文献 「経歴書」早苗 鋭一郎 (八洲光学工業 元社長)




9.再建
八洲光学工業株式会社は昨年末以来、輸出の不振と国内市場の不況のため大きな打撃を受け、本年初頭からは全く操業休止の状態にあったが、去る八月中旬より東京工場は八洲光学株式会社(社長 新原安郎氏)、福島工場は八洲光学機械株式会社(社長 織田大造氏)として各々生産を再開した。
東京・福島とも従業員約70名で従来通り顕微鏡の生産を主体として再出発したが、東京としては、操業早々に台湾に50台の顕微鏡が輸出され、最先のよいスタートを切り、東京福島共に新社長のもとに再建に努力し、又、今後の需要に着々進行している。
尚、新原社長は商事会社社長を兼ね、貿易方面にも明るいので、親会社社長西野氏の熱望されていただ中日貿易の促進のため、関係者方面にも積極的に働きかけて、これが実現に努力し、その前途にも漸く曙光を見出しつつある。

   引用文献 「応用物理学会 光学懇話会ニュース」(昭和27年 1952年 No.3)




10.混乱(新八洲光学発足後、再倒産)
同社は従業員約100名の顕微鏡工場であるが、前年以来賃金の遅配、欠配ははなはだしく、昭和29年2月24日会社は経営難でこれ以上賃金を支払える可能性がないからと、3月1日付で全従業員解雇の通告を行った。

省略

労働組合は全ての物品を押えており、占有権をもっているから会社に対して優位にある、自らこの権利を放棄する必要はないという態度を決定した。 以後生産の面では900倍型顕微鏡50台を新たに追加生産することによって手あきを克服し、代金回収の点では朝鮮輸出と北海道庁より130万円が入金したため、苦しい斗いの中ではじめて三月分賃金の満配と四日分賃金30%の前払いを実現することができた。 しかし四月末より状況は再び悪化し、そのため次のような斗争方針によって事態を処理せざるを得なかった。

省略

その結果残留人員はわずか23名、組立部門は皆無、仕上1名、旋盤2名、ミーリング1名という状態であった。
これについては、組合幹部が全組合員に企業を守ることの意義を徹底させ、企業を守る闘いに立上らすことが出来ず、また常に行き当りばったりの指導しかできなかったことが批判されている。
しかしこの23名で徹底的に話し合った結果、次のような方針をたてて5月11日から必死の闘いに立上った。

1.生産および販売については、当分の間下請関係の仕事を続け食代だけを働きだす。在庫品を速やかに現金化し、仕掛中のものは完成させる。
2.人員配置は、間接総合1、旋盤3、ミーリング1、仕上1、鍍金2、大研2、中小型(芯取、検査、一研)8、調整3、事務2、営業1。
3.労働時間は拘束八時間。
4.給与は基準を現行のでゆく。交通費は別に支給、残業取扱いは時間給支給、全員のときは計上しない。こうしてこの新八洲光学の組合員は全国金属東京地方本部や光学労協の援助のもとに以後生産を続行している。

   引用文献 日本労働年鑑 第28集 1956年版(昭和30年11月20日) 編著 法政大学大原社会問題研究所




11.再建(新八洲光学)
  昭和30年9月2日、前会社と同一名所にて別個の法人格の新八洲光学設立。
昭和35年2月に至り一部役員の更迭、同年9月労働組合幹部の組合より除外、更迭の実施により、資本主義社会形態に於ける企業の在り方に関する全従業員の認識と思考的変化を計った。直に生産活動への意欲的行動として現われ、営業面に於ける国内及び国外への積極的営業活動と相俟って、昭和36年7月期決算売上高は、前期2ヶ年間の合計を超える成果を残した。

   引用文献 「経歴書」早苗 鋭一郎 (八洲光学工業 元社長)
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